2013年 10月 20日
カメラマンとして
私は、カメラマンで写真を撮って生活していたけれど、
だんだんつまらない写真しか撮れなくなっていた。
もっと自由に好きなものを、
好きだとストレートにフレームに収めたいのだけど、
自分自身がつまらないと思えた。
しかし、それに反比例して、仕事も収入も増えていった。
写真の本質、シャッターを切れば撮れてしまう怖さに
おののいていた。
自分が信じた写真を
自身が見失っていた。
自由に、もっと自由に。
好きなものを好きと撮影できるように。
プロとして、これからも活動はしていくのだけど、
それは、高い収入よりも、
自分が撮りたいものを撮るという自由さ。
違う言い方をすると傲慢さ。
結局は、自己中心的な作品のようなもので、
やらされている感覚が続いてしまう恐れ。
「やらされていると思うな。やっていると思え」
という意識の変換は、少年時代から軍隊のような野球部で
身に付けてきたけれど、
そういうことではなく、
写真という仕事自体はこなせてしまうから、
束縛からの脱却のようなもの。
世の中は資本主義で、私もビジネスをやっているので、
いいデザインとは「売れるデザイン」だし、
いい写真とは「売れる写真」「価値のある写真」なのはわかっているけれど、
それでも、写真だけは
「いい写真」が「売れる写真」、「価値のある写真」
とはイコールになって欲しくない。抗い。
結局は、自分の人生は、自分のものでしかないので、
誰に反対されようと、私は私の写真しか撮れない。
誰かと同じ道しか正解じゃないのなら
私は不正解でいいのかもしれない。
例えば、ブライダル写真を撮影させていただくことは多いけれど、
写真を撮影してから、RAW現像、写真編集、デザイン、アルバム制作までやると
1ヶ半~2ヶ月はかかってしまう。
それでも、
新郎新婦にとっては一生に一度の結婚式の写真を
本当に丁寧に仕上げたいから、
時間はかかるけれど、できる限り最高のものをと思ってしまう。
いまブライダルの撮影なら月2本が限界。
それは経済破壊活動で、儲けとは対極にある活動。
それでも自分の満足度と、お客さんの満足度が高いなら、
自分の撮る写真とは、そういうものなのかもしれないと思う。
田中 健二
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by tanaken109
| 2013-10-20 18:11
| 日記